▼直江兼続の生涯 4 天下分け目の戦い2007/09/19 11:39 (C) 戦国観光やまがた情報局
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慶長5年(1600)、領国に戻って軍備を整えていることについて、申し開きのために至急上洛せよと、家康が詰問状を送りつけてきたのに対し、兼続は堂々とした反論の書状を送ります。これが世に名高い「直江状」です。
返書を読んだ家康は、激怒したといわれており、すぐさま上杉征伐の軍勢を招集します。この征東軍は総勢10万あまりに及ぶ大軍で攻め寄せ、下野国小山(現・栃木県小山市)までやって来ます。
ところが、決戦開始も時間の問題となったころ、大坂にて石田三成らが挙兵したとの報告がもたらされます。
征東軍では軍議が開かれ、三成率いる西軍との決戦に赴くことが決まると、西に進路を転じ退却を始めました。これぞ家康を討つ絶好の機会と、兼続は総攻撃を主張します。ところが景勝は、退きさがる敵の背中を討つのは、上杉の「義」に反するとして動きません。兼続もやむなく主君の命に従いました。
このあと兼続は、東軍に属する山形城主の最上義光を攻めました。不戦の約束を破り、上杉領であった庄内地方に攻め込む姿勢を見せたからです。怒涛の進撃を開始し、山形城から南西の支城・長谷堂城を取り囲み、落城寸前までに追い込みますが、関ヶ原での西軍・三成の敗報を受け、米沢領への撤退を余儀なくされます。
この撤退戦では、総大将である兼続自らが殿(しんがり:引き上げの際の最後尾の部隊)を務め、伏兵と鉄砲隊を用いて、少数の軍勢で追撃の大軍を防ぎきり、自軍の被害を最小限度に止めました。のちに敵将である義光や家康も賞賛するほどの見事な戦いぶりでした。