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▼佐藤藤三郎さん

佐藤藤三郎さん/
佐藤藤三郎さんは、山形県上山市狸森(むじなもり・旧山元村)在住で昭和10年生まれの86歳。現役の百姓だ。ペンを持つ農民として佐賀県の山下惣一さんや、山形県上山市の木村迪男さん、同じく山形県高畠町の星寛治さん、山形市の斉藤太吉さん等と共に全国に良く知られた方で、置賜地方の俺たちも県下の百姓同様、彼の事を親しみ込めて「藤三郎さん」と呼んでいる。
藤三郎さんの事をもう少し詳しく紹介すれば、農村評論家、農民評論家、あるいは戦後間もない頃、上山市山元村の小学校に赴任した無着成恭氏から指導を受けた「やまびこ学校」の元生徒会長として・・など様々だが、俺から言えば、やっぱり、山形県を代表する小農であり、山間地で農業を営む象徴的農民だ。
近年、グローバリズムが叫ばれ、農業の世界でも「国際競争力ある農業」、「強い農業」でなければ存在する意味がないとばかりに、効率化、大規模化を推し進め、小さな農業、特に山間地の農業はは淘汰の対象とされて来た。
藤三郎さんはそんな中、農業と山間地を活かした林業で暮らして来た。淘汰される農業農村の立場から現代を捉え、厳しく指弾し、批評する農民文筆家として世に警鐘を打ち鳴らして来た。それでいて決して尖がることなく、また偉ぶることもなく、いつも飄々として親しみやすい笑顔を湛えている。
俺が百姓になったならすぐに訪ねてみようと思っていた人が藤三郎さん。25,6の駆け出しの頃、思い切って電話をかけ、緊張して待ち合わせ場所に。150cm余の小柄な藤三郎さん近づいて来た。満面の笑顔。俺は緊張して立つ190cmの大男。いっぺんに藤三郎さんのペースに巻き込まれてしまった。人間が違う。迫力は体躯ではないと実感した出会いだった。

藤三郎さんが暮らす地域は、奥羽山系の中でも狸森という地名通りの山合の村で、果たしてここを車が登れるのかと思えるほどの狭く急な坂道を登って、下って、また登って・・の所にある。佐賀県の山下惣一さんは、かつて藤三郎さんの事を「ぴょんぴょんと跳ねるように歩く人」だと言ったことがあったが、彼の集落を訪ねてみてその原因が良く分かったと言う。そのように歩かなければつまづいて転んでしまうからだと。なるほど、言われてみればそうかもしれない。
藤三郎さんはその村で田んぼを作り、炭を焼き、牛を飼いながら、つい最近まで農業を続けて来た。
その藤三郎さんが農仕舞いをしたという。戦中に生を受け、敗戦が10歳前後。一貫して 村で暮らし、農業と林業で生きてきた。それは、この国、村、農業を襲った激動の現代史とも重なる。決して他所事ではない。もしかしたら、藤三郎さんの農仕舞いはそのままこの国の農仕舞いとなるのかもしれない。いま藤三郎さんの胸に去来するものはなんなのだろうか。藤三郎さんに聞いた。

「田んぼかい?今は雑草が生えたままになっているよ。引き受けてくれる人は誰もいないからな。田んぼに気の毒でよぉ。田んぼには悪いことをしたなぁと・・今も思ってるんだ。」
「再び農が力を得て、村を守る、よみがえる。若い人たちが堂々と村で生きられるような社会、地域が本当に実現できないかと考えている。そんな希望を今も捨てていない。そのためには農業を大規模化するのではなく、農+農外収入の兼業で、村と小さな農業を共に残す。若くはないがそんな地域社会づくりに貢献したいと思っている。」
「経済、流通のグローバル化で狸森の様な山の中で暮らしていても肉や魚が食べられる。でもすべては金に依存する。その方向では肝心の地域社会が維持できない。崩壊していっている。豊かな暮らしでなくても良い。例えば山形県を3〜4のブロックに分けて、地域資源に依存した新しい地域自給の仕組みを作って行くことができないかと考えている。地域が残るにはそれしかない。」

藤三郎さんが最後に力を込めて
「岸田総理は新しい資本主義というが、求められているのは『新しい社会主義』だと思う。」と語った。この一言に、藤三郎さんの歩んで来た足跡、これからも歩み行く方向が凝縮されているように思えた。コロナカ禍のなか、久しぶりに出会えた学びの時間だった。


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