▼◆東北の歴史を紐解く その5 ◆2016/03/12 17:50 (C) 高畠・まほろばの里案内人・ とだちゃんブログ
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後3年役後清原清衡は、白河院に取り入り父親の姓である藤原を名乗り
藤原清衡として平泉に拠点を置いた。初代清衡は過去の戦での膨大な戦死者の弔いと
仏教による平和な世の中を願い中尊寺を建立しました。2代基衡は毛越寺、3代秀衡は無量光院など寺院建立や都市整備に力を入れ、中央から隔離された平泉王国を築いた。
3代秀衡の時、京都鞍馬寺より義経を平泉に招へいした。理由は定かではないが、蝦夷の血脈に源氏の血脈を導入することで中央進出を図っていたのかもしれません。この時頼朝は、伊豆で流人の生活を送っていますが、平泉に義経が呼ばれたことを知っていたようで、源氏の嫡男をさておいて弟とかかわったことについて自分がないがしろされたと敵心を抱いたと考えられます。
義経は東北の地で高度な弓馬の術を身に着け、父源義朝の敵討ち参戦を心待ちしていました。
頼朝の平氏打倒の出兵を知った義経は頼朝軍に合流し、皆さんご存知の大活躍で平氏が滅ぼされます。平氏は帝の護衛係でありましたが、帝は平氏没後代わりに義経に検非違使の官職を与えました。義経は戦功の褒美と思い込み喜んで受けましたが、頼朝はそれを良しとせず義経追放に走ります。義経は弁慶とともに再び平泉の秀衡を頼りに身を寄せます。それも頼朝の知るところになり、度重なる義経引き渡し要請に、平泉4代泰衡は義経の館に夜襲をかけ義経は自害することになり、その首を頼朝に送りました。が、これらを口実に頼朝は奥州征伐を実施し平泉は約100年で終末を迎えることになります。頼朝は平氏の次は平泉を攻める事は最初から考えていたようです。義経の首は別人のものであり、義経自身は青森から船で宋に脱出したという説もあるようですが ????? いかがでしょうか
「炎立つ」第5巻はそのような内容の歴史物語です。 続く