▼新資料発見。2011/09/22 20:28 (C) 珈琲豆屋です!
▼こんにちはふたたびおじゃましています。
地元への愛に満ちた過去ログを拝見しておりましたら 蔵田先生?のお名前をみつけ(中学でお世話になったと 記憶していますが、人違いかな・・)懐かしくなり コメントさせていただきました。 今月帰省予定で、とんぼ返りになりますが お店のほうに、お邪魔できたらと思っています。 2012/05/06 14:47:mannnakamichi:URL
▼お待ちしております。マンナカミチさん、ありがとうございます。
素敵なブログちょっと読ませていただきました。 蔵田国順氏は玉庭中学校、吉島中学校などで教鞭をとると略歴にありますので、多分そうだと思います。 この辺も随分あったかくなりました、昨日の嵐にはびっくりしましたが。 弊店は火曜日が休日です。ご来店をお待ちしております。 2012/05/07 09:55:mameichi
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先日置賜日報社の成澤社長より「伊勢神宮御師蔵田一族の歴史:蔵田国順氏著」という本を頂戴しました。
以前より調べていた豊川炭鉱馬車鉄道の資料を提供させていただいたためです。
そしてこの中に出てくる蔵田国治がその会社の社長だったのです。
著者の蔵田国順氏は現在小松皇太神社の宮司で、当代より3代前が国治となります。
何度か米沢日報の連載していたときもも読ませていただいたのですが、今回新たに2つのことが分かりました。
1つは国治が警部をしていたことです。神主のほかに明治11年から県の書記などをやり、その後明治12年1年ほどではあるが警察官をしていたのです。
豊川炭鉱馬車鉄道専務の高野義雄も警察官をしていた時期があるのです。
手元に資料がないので分かりませんが、何かかかわり合いがあったかもしれません。
もう一つは国治の兄信が東京府南足立郡長をしていたことです。そしてその信が郡長をしているときに、エリア内に千住馬車鉄道が開通したのでした。当初この鉄道はすこぶる好調な成績を上げていた時期であり、そのとき信は内務省より非職を命じられ、翌27年1月26日に依願免官となり小松に帰りました。
そして信は28年8月8日小松で逝去しています。郡長をしていた信は千住馬車鉄道に許可を与える方だったと思われ、国治に何かアドバイスをしていたのではないでしょうか。
米沢日報に小松の有志によって鉄道馬車の計画が掲載されるのは、それから2年余りあとのことです。
それにしても、何か発信すれば少しづつ見えてくることもあるものだと妙に感心しました。