▼あるがまま2009/09/21 22:57 (C) Planning Kaori 浅倉かおり
▼How to be is probably what we are. いかにあるべきか・・・ここにあることの「重さ」とその「軽さ」をわが身にうけとめて生きる、あるがままに。。。
そういうことなのかなあと感じられて、こころがふわっと澄み渡っていく気がしました。 「わざわざ書いている」・・・のくだりは、ふと微笑してしまいましたが、かおりさんの学びの吸収力を自ら自覚されたことばだと思いました。 論語に学ぶ・・・素敵ですね!! 2009/09/22 01:45:たけ
▼同感。こういうことをわざわざ書いてくれて、
ありがとうございます^^ 誰かの役に立つことや、サポートは、自分で欲し為すことではないので、私もやめた^^ 「how to do」「how to be」感心しました。氣がつかなかった。「how to do」しか見えてなかったな。 2009/09/22 07:39:山口
▼日々勉強>それは自分を卑下することではなく、
また身勝手に自分の人生を楽しむことでもなく、 真の自由(あるがままで在ること)は 責任と気配りがともなうことを理解したうえで、 「足るを知り」、見返りや賞賛を期待せず、 >ただ「無心」であればいいとう気持ちです。 わかった!と思ってもできるカラダにならなければ わかった事にはならないよね。 今日気付けても、一週間後には忘れていたり、 だから学ぶ仲間がいたりするんでしょうね〜 2009/09/22 08:02:konta
▼あるがままのみなさま〜>たけさま
ありがとうございます。 >ここにあることの「重さ」とその「軽さ」をわが身にうけとめて生きる、あるがままに。。。 あれも欲しい、これも欲しいと渇望したり、 あれもダメ、これも失敗だったと、 自分の人生にケチをつけて生きいていたら、 自分で人生をだいなしにするんだなーと思って。 何にも考えないで、日々もくもくと心を込めて生きていたら、 ものすごく幸せなんだと思うんでした♪ >山口さま こちらこそ、ありがとうございます。 仕事の場合、何かの役に立ってこそ成り立つものだけど、 たぶん「やってあげる」だと 「やってあげるから」とか「やってあげたのに」 っていう見返りの落とし穴に足を取られて、 不調和がおきるんだと思うようになったの。 何とも思わず「無心」でやって、 結果的に誰かの役に立っているっていうのが、 「how to be」から「how to do」への 本来の流れなのかも。 >こんちゃんさま 論語に学ぶ会ではいつもありがとうございます〜。 >だから学ぶ仲間がいたりするんでしょうね〜 そうですねー。 私は老子が好きな和雄さんから道教の「無為自然」を学びました。 フラワーエッセンスの発案者バッチの本にも 「霊性を求めるな」と同様の意味と思えるくだりがあります。 それを体現しながら語っているのが萩原さんのような気がして、 いろんな学びを通して、 あらためて「菜根譚」に入りやすくなったりと・・・。 ほんと、日々勉強です〜(^0^) 2009/09/22 18:51:kaori
▼ありがとう!「如何に在るべきか」ではないんですが、
「自分がどうありたいか」は、 いつも私自身が自分に問いかけている言葉です。 「どういう生き方をしていきたいか」って、 そういうことを、ずっと考えてました。 でも、誰かに話したり、書いたりすることはなくて・・・。 だから、いま、このときに、Kaoriさん、こんちゃんと いっしょに学べる人たちに出会えて、とても感謝してます。 ありがとう! 2009/09/23 11:21:えがお
▼どうありたいか>「どういう生き方をしていきたいか」って、
そういうことを、ずっと考えてました。 同感です。 大変な状況にあっても、 「3次元劇場でどんな人生を過ごすのか。」 こっからは見えないけど、 天上界からは丸見えなんだそうです。 自分なりに落ち着いてふかんでみていくと、 「おてんとう様に申し訳ねえ」っていう在り方じゃ、 やっぱり申し訳ねえですし、はずかしいし、 自分もつまらないしー。 昨日はお彼岸のお墓参りで、 あらためてそんなことを考えました。 私もえがおさんとこんなにいろいろお話できて、 とってもうれしいでーす。 いろいろ教えてくださいませー☆ 2009/09/24 09:57:kaori
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毎月1回の「論語に学ぶ会」。
未熟者なので、原文などはさっぱり分かりませんが、
通釈と講師の高野先生の解釈付きで、どうにか学ばせていただいております。
堯日第二十
507〔原文〕堯日、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。
舜亦以命禹。
〔読み下し〕堯(ぎょう)日く、咨(ああ)爾(なんじ)舜(しゅん)、天の暦数(れき
すう)爾の躬(み)に在り。允(まこと)にその中(ちゅう)を執(と)れ。
[通釈]
堯が帝位を禅譲するに当り次のように云った、「ああ舜よ!天命が汝に下ったようだ。
帝位に就いたならば、中庸の道を堅く守り通して行け!万一中庸の道を踏み外し、
天下万民に困窮を強いるようなことがあれば、天が汝に与えた幸運は永久に途絶えるであろう」と。
舜も亦禹に帝位を禅譲するに当り、堯から訓示されたと同じ言葉を以て申し送った。
この一文に対する高野先生の解釈の中で、
先ず問われるのは
「如何に在るべきか!how to be」なのであって、
「如何に為すべきか!how to do」ではありません。
というくだりがあり、最近思っていたこととシンクロしました。
20代の頃は、自分のスキルが上がっていくことに喜びを持ち、
30代は社会に貢献できることが、仕事のやりがいでした。
ここ最近は、誰かの役に立とうとか、
困っている人をサポートをしたい、といった気持ちは
どこかに思い上がりがあると感じるようになりました。
正論を掲げていつの間にか周囲を説得しようとしていたり、
結果がでなかったときに落胆したり、憤りを感じるのは、
すでに心の状態が思い上がっているからで、
私ごときがひと様の役に立とうするよりも、
ただ在るに意識をフォーカスすることが大切だと
思うようになりました。
それは自分を卑下することではなく、
また身勝手に自分の人生を楽しむことでもなく、
真の自由(あるがままで在ること)は
責任と気配りがともなうものと理解したうえで、
「足るを知り」、見返りや賞賛を期待せず、
ただ「無心」であればいいとう気持ちです。
そうした状態で出会う人たちや出来事、活動が、
真の友人だったり、本当のはたらきなのかもしれません。
こんなことをわざわざ書いている時点で
ぜんぜん無心じゃない気もしますが、
自分を犠牲にしないで、他者にも寛容でいられるよう、
日々の中で学んでいきたいと思います。