▼【質問】どんな性格だったの?(その1)2008/05/29 10:46 (C) 最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)
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ハセ博士:義光はいろいろなところにたいそう気をつかう人物だったようじゃ。戦争に出てケガをした家来たちには、義光が自分でやさしい見舞状(みまいじょう/体のぐあいを気にした手紙)を書いものがいくつも見つかっておる。
廣川喜右衛門の見舞状(ひろかわきうえもんのみまいじょう)
【現代語訳】今度の戦いでの働き、よくがんばってくれた。ケガをしたということだが、大変心配している。しっかり治して元気になって欲しい。
▲「早く治して元気になってくれ」という、義光の家来へのあたたかい心づかいが伝わる手紙として有名です。
また、自分の土地に住むお百姓さんたちのこともたいそう気にかけておってな、まるで自分の家来のように思って大切にしておったそうじゃ。その証拠に、義光の時代にはただの1度も百姓一揆(ひゃくしょういっき/お百姓さんたちがお互いに団結して殿様に反抗すること)は起こっていないんじゃよ。これは当時としては大変めずらしいことだったんじゃ。
それから、降参(こうさん)した相手にもあたたかい手をさしのべる人物でね、敵(てき)として戦った相手でも、降参すれば自分の家来にして、それぞれの才能(さいのう)や能力(のうりょく)にあった仕事をさせたそうじゃ。
中でも真室川(まむろがわ)の鮭延(さけのべ)という殿様には、義光に戦争で負けた後、最上家の家老(かろう/家来の中でも特に偉い役職のひとつ)にしてもらったそうじゃよ。